【読書記録】『ベスト・エッセイ2020』日本文藝家協会編

 ベスト・エッセイ2020

ベスト・エッセイ2020

 少し遅くなりましたが、明けましておめでとうございます。奈良美佐です。

 皆さまにとってよりよい一年になりますように。

 また、少しでも早く「日常」が戻ってきますように。

 

 

 さて、今回はブログを始めて初のエッセイです。

 しかも、特定の作家さんではなく、様々な方が書かれたエッセイです。

 そりゃもう様々な方々が書かれています。

 だって、作家さん以外もかかれているんですよ、アートディレクターさんとか、数学者さんとか。しかもさすが「ベスト」エッセイ。皆さま、本当に素敵な文章を書かれているのです。その中でいくつか、気になった者を紹介したいと思います。

 

生島治郎さんの手紙』 大沢 在昌

ハードボイルド小説かになりたいという”夢”を”運命”へと変えた手紙。生島さんは「覚えてない」と言うけれど、大沢さんのことめちゃくちゃ可愛がってるっぽいのはその”手紙”が関係あるんだろうなあ。生島さんは既に他界されているけれど、大沢さんとの関係は本当に素敵なものだったんだろう。そして手紙はきっと生島さんにとっても宝物。それ以上に二人の関係は何物にも代えがたい宝物なんだろうけれど。

 

『ハートはピリオド』 河合 香織

可愛らしいたいとる、なのに中身はなかなか重い。世代とかいろいろ人の主観に影響を与えるものはこの世の中に多い。軽く書かれているけれど、おじさんのやった事は許せないけど、でも、同時に同情せずにもいられない。

 

『暖簾は語る』 青来 有一

大雑把に「内向」と「外向」に性格をわけた場合、「外向」に重きを置かれているような昨今に疑問を投げかける。私はどちらかというと内向的だ。仕事はできるけれど、関係のない人に事実とは異なる噂を振りまいて攻撃してくる仕事のイマイチな外交的な人にかなわない。現代の会社という場所は、内向的な人にはとても生きにくい場所だ。業務能力よりも政治力が、事務の仕事にだって重要なのだ。

おっと失礼、個人的な愚痴になってしまいました。

 

ティッシュの否定形』 伊藤 亜紗

東京工業大学で理工系の学生相手に芸術を教えているという。”あらゆる芸術作品は否定から始まる”とは初めてきいたが、読んでみてなるほど、となった。「ティッシュボックスを否定せよ」よいうお題に対する学生たちの回答は、普通にみたら荒唐無稽、でも「なるほど、芸術だ」とも思う。私にはまねできない。一番笑えたのがお題「ガムテ」の時の回答。斬新すぎる!”あることを言葉で否定するのは簡単だ。でも物で否定するとなると、相手のことをじっくり観察しなくてはならない。結果、その素材の意外な可能性が掘り起こされていく。芸術における否定とは、実は深い肯定なのである”という言葉にはうならされた。

……ガムテでこのエッセイに出てきたものを超える「否定」が私にできるだろうか。しばらく考えているけれど、なにも出てこない。流石だよ理工系の学生さん。

 

『動物の命を思う夏』菅 啓次郎

「戦時中の動物園」をみて考えたことが綴られており、戦時には国民の生殺与奪件は国家に握られているが、動物のそれは常に人間に握られており、人間はそのことに疑問を持たない、といったようなことだ。少ししかない描写も、想像するだけで胸が悪くなるものだった。ここで紹介されている書籍『いのちへの礼儀 国家・資本・家族の変容と動物たち』にも興味をそそられる。

 

『九十九の憂鬱』東 彰良

”自己嫌悪や劣等感が言葉を磨いてくれることに気付けたのは幸いだった。それまで誰かを不愉快にさせる以外に使い道のなかったそうした感情に、やっとほかの用途を見いだせたのだから”

この作家さんの小説を、私はまだ読んだことがない。でも、読んでみたいな、という気持ちになるエッセイだった。

 

『信じるチカラ』木ノ下 裕一

総じて、人が不安になる時は、何かを信じられなくなった時だ。家族や仲間、社会、そして自分自身……それらを信じられなくなった途端、私たちの眼は曇り、世界がくすむ。先生はよく、美術とは「自分で感じ取ったものを、美しいもの、よいものにするために手順や計画を考え、つくりあげていくこと」だといっておられた。

 

『お菓子の家』木皿 泉

”失言をする人がいる。パワハラとか、セクハラとか、なんでそんなこと言うかなあと首をかしげる。そういう人たちは、お菓子の家に住んでいたんだなと思う。丸々と太らされて、目の前に差し出されるお菓子ばかり見て、なぜそんなものが自分の前にあるのか、考えたこともない人たちが、この世にはいるのである。そういう人たちには、周りの人は自分のためにいるというふうに見えているのである。"一理ある、かもしれない。でも、その人がなぜそう考えたかはその人にしか分からない。決めつけてしまってよいものだろうか。

 

『梅雨の前に』奥本 大三郎

たくさんの桜の花びらがおちて地面を埋め尽くしている。梅雨の前にはよく見かける風景のひとつだ。それに関する話から始まって丹頂鶴で終わる。季節になぞらえて時代の移り変わりと人と自然の共存が見えて面白かった。

 

『ベストフレンド4ever』山田 詠美

塀の中の懲りない面々』の著者安部譲二さんについてのお話。読んだことないし、塀の中に入ってた人だし、という私のイメージを大きく覆す安部さんのあれやこれや。素敵な方だったんだなぁ。『塀の中の…』読むべきかもしれない。

 

『毎日が新しいという生き方』最相葉月

タイトルからは想像がつかない、認知症の話だった。そして暗くなりそうなこの話題を「忘れるというのは毎日が新しくなることで、それは新しい生き方ではないか」と紹介していた。目から鱗とは、こういうことか。

 

『「知りたい」という気持ち』三浦しをん

”「知りたい」は、自分以外の存在に目を向け、心やこの世界や生命の謎に迫らずにはいられない。私はそれを尊いと感じた。”

 

『冬と猫』島本理生

エッセイというよりは超短編小説みたいで面白かったです。ちょっとオカルトのにおいがします。

 

『仕合せなお弁当』高村薫

子どもの頃のお弁当に対する想い。定番のお弁当の中身はおにぎり、卵焼き、牛肉大和煮の缶詰かコンビーフの缶詰、ごく細い千切りにしたキャベツの塩もみにマヨネーズ。なんかいいな、と、思いました。

 

『隠棲』藤沢周

うわー、これめっちゃ私の気持ちを代弁してくれてるわ、と感じてしまいました。現代社会、政治への皮肉があるのだけれど、この一文”頑張ることは大事だけれど、この成果ばかりが求められる世の中で、「俺が、私が」と他人様を押しのけて、手柄を立てるだの、仕事が出来るだの、勉強ができるだの得意顔でしゃしゃり出て平然としていられる神経が嫌だから、社会に背を向けたくなる。”気が付くと私もそんな人間になっていた。それに気づいた時、社会に背を向けたくなって、今もその気持ちは変わらない。

 

堺屋太一さんを悼む』三田誠広

名前だけを知っていた堺屋さん、すごい人だった。地下水の汲み上げ制限を実施して大阪の地盤沈下を食い止め、経済的地盤沈下を憂慮して晩大阿久開催に奔走、また、資源エネルギーの部署に配属された時は日本経済の石油への依存度の高さに気づき石油供給停止の毛ねんから『油断!』を執筆したところオイルショックとなり本はベストセラー、更には万博準備中に修学旅行の宿舎手配をしていた時にある世代の高校生にカタマリがあることに気付きこのカタマリが問題を起こすのではと『団塊の世代』を発表しまたしてもベストセラー。こんな人がいたなんて!もしかして、この時代には結構いたのかなあ。

 

『声を忘れるとき、言葉を消すとき』牧田真有子

おじいさんがなくなり、肉声がどこかに残っていないかを探す。読みながら二つの事がよぎった。肉声ではないけれど、私は両親のメールを消さないように気を付けていて時々PCに転送したりしている。最近友達にペットを勧められることが多く、先日も友達の犬と戯れ癒されているときに「ペット飼いなよ」と言われて、少しその気になっていた。「ペット可のアパートに引っ越そうかな」と。でも、多分私はペットを飼ったとして、いずれ訪れるであろう別れには耐えられない。 

 

ここで紹介したのはほんの一部です。特に心に残ったもの、いいと思ったもの、を紹介したかったのですが、ほんの数ページのエッセイに込められたメッセージの重さ深さに私のつたない文章では紹介するのは無理だ、とあきらめたものもあります。

 

 今回も読んでいただきありがとうございます。

 

 by 奈良美佐